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「はなちゃんのみそ汁」というstory
あなたが、お子さんに残してあげられるものとは・・
「もし、あなたに5歳のお子さんがいたとして、しかし突然、「余命5カ月」と宣告されたとしたら・・ あなたは、お子さんに何を残してあげられるでしょうか?」
そんな問いから始まる竹下和男先生の講演会。
そして、そのあとに流される「はなちゃんのみそ汁」(現在のはなちゃんとお父さんの話もプラスされているもの)のスライドショー。
本にもなりました。ドラマにもなりました。映画にもなりました。
※闘病中の千恵さんが書いていたブログ(現在は旦那さんが引き継いで書いています。)もあります。→「早寝早起き玄米生活」
25才で乳がんを患い、その後、結婚、そして(難しいといわれていた)妊娠・出産もした千恵さんという女性。彼女は、がんの再発により33才の時に亡くなってしまいますが、彼女が、一人娘のはなちゃんのために残したものは・・?
そんな実話のstoryです。
スライドショーでは、さらにこんな話がプラスされていました。
千恵さんが亡くなったあとの話です。仕事が遅くなったお父さんのために、まだ小さかったはなちゃんが、夕飯を一人で作ってテーブルに並べておいてくれたそうです。お手紙つきで。
自分で切ったトマト、自分で切ったわかめ・・ それを見たお父さんは言葉を失います。そして、「おいしかったよ。」と翌朝はなちゃんに伝えると、「じゃあ、毎日ごはんを作るね!」という、思ってもいない展開に発展してしまったのだとか・・
また、講演の中で先生が言っていたこと。
はなちゃんとお父さんと対談式の講演会を行ったときに、はなちゃんに「お母さんから教わった料理は何があるの?」と聞くと、「ごはんとみそ汁だけ。」と答えたそうです。
しかし、はなちゃんのレシピ集が本になったものもあります。それを聞くと、「だって、お父さんが喜んでくれるから、いろいろ作れるようになったんだ。」と話したとそうです。
このstoryを見て、何を感じるでしょうか?
『食べることは、生きること』
「はなちゃんのみそ汁」の映画の中でも出てくる『 食べることは、生きること 』というキャッチフレーズ。その通りに、「食べること」によって私たちの体は造られます。
そして、「食べること」を共有していく仲間をもつことで、私たち人間は「社会」というものを形成していきました。そうやって700万年という長い年月をかけて、私たちは「チンパンジー」から「人間」へと進化してきたのです。
しかしいま、私たちは、その過程で得てきた様々なものを壊し始めています・・
「食べること」が、おざなりになっていませんか?
「食べること」を誰かと共有することが、おざなりになっていませんか?
「はなちゃんのみそ汁」の千恵さんも、がんを患ったことで、そのことに気づきました。そして、「自分の亡き後のために、一人娘に何を残せるのか?」と考えた。そして、その答えはシンプルだった。
『 ムスメが一人でも強くたくましく生きていけるように。一人できちんと生きていけるように、その手助けだけはしてあげたい。』(千恵さんのブログより)
そして、4才という幼いと思う年齢かもしれませんが、そんなはなちゃんに、「一人でも生き抜いていけるチカラ」をつけさせるために、料理や家事を教えていったのです。
「子どもを台所に立たせる」ということ
「 “子どもが作る” 弁当の日」
竹下先生が提唱者となり、全国の学校に広まっている「“子どもが作る” 弁当の日」という取り組みがあります。( 詳しくは、【 食育 最前線 】「 ”子どもが作る” 弁当の日 」を知っていますか? でご紹介しています。)
この取り組みでの目的は、「調理技術を身につけること」に留まりません。その先で生まれる「子ども自身の生きるチカラを呼び起こす」といった部分も大切にされているのです。
生きていくために必要不可欠な「食」。
現代社会は、その「食」が軽視されてしまっていますよね。そして学校で教えられるのも「栄養学」に突起しています。じゃあ、「サプリメント」で「栄養だけ」取っていれば、生きていけるのでしょうか?
「孤食」という言葉が、いまもなお言われ続けます。「食」を分かち合う仲間がいないことは、「生きる」を共にする仲間がいないこととイコールになるのではないでしょうか?
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「一人で食べるごはん」も「サプリメントだけの食事」も、やだなー。そんなんじゃ毎日がつまらなくなっちゃうよー。
そうやって「食」の大切さを見失っている社会の中で育っているいまの子どもたち・・
彼らにとって、いま一番に必要とされているのは、「栄養学」を教えることではなく、「食事をすることが楽しい!」という感覚を育てることなのではないか? 「食事を作ったら、誰かに喜んでもらえた!」という経験を増やすことなのではないか? それが、人間が人間としてもっている「生きるチカラ」を呼び起こすのではないか? そんなふうに竹下先生は考えたといいます。
そして、義務教育という枠の中で、子どもを台所に立たせる機会をつくろうとした。その結果できたのが「“子どもが作る”弁当の日」なのです。
当たり前に「できること」「できないこと」
はなちゃんは、料理や家事をひと通りできるようになって小学生になったといいます。そして、同級生に何でもできるはなちゃんは驚かれたのだとか。逆に、自分が当たり前にできることをみんなができないことに、はなちゃんも驚いたそうです。
子どもを一人で台所に立たせるとなると、大抵の親は、「そんなことはできないだろう・・」「包丁を持たせて、ケガでもしたら・・」「ガスを使わせて、火事でも起きたら・・」と思ってしまいますよね。
親が子に対して、「どうせできないだろう・・」と思って、何もさせないでいると、「できないことが当たり前」になっていってしまいます。現代社会の中では、そんな子が多いのでしょうね。
そんな中、竹下先生の提唱する「“子どもが作る” 弁当の日」に出会って変わっていった子どもたちがたくさんいるといいます。ある中学生は、作文でこんなことを書いています。
「 ~略~ 私は今まで、何事もやる前から「どうせできない。」とあきらめることが多かったけど、それはやろうとしないだけだった。やればできるんだと、この “弁当の日” を通して学ぶことができました、そして少し自分に自信を持つことができるようになりました。~略~」
このあとの彼女の作文には、そういった心の変化により、疑問に思ったことを3年かけて自由研究の課題にし「食と健康」として調べあげたこと、そして「食と健康についてもっと勉強して、それを伝えられるような医者になりたい」という目標をもって頑張っていこうと思っていることも書かれていました。

素敵ねー。
竹下先生は、「人は与えられた環境に適用する。」「幼少期は脳を作っている時期である。」と表現されますが、子どもの脳は「まだ柔らかい粘土」と想像するとわかりやすいかもしれませんね。
脳の発達は~19才までと言われます。ここまでは柔らかいのでしょう。そして19才を境にだんだんと乾いて固くなっていくのでしょうね。粘土のように。
柔らかいときは、形を変えていくことを容易にできますよね。だから、ちょっとしたきっかけさえあれば、それまでの自分ができなかったことも出来るようになったり、挑戦しようと思えるようになったりとするのです。
子どもが育つ環境をつくること
「子ども一人に、包丁を持たせ、ガスを使わせていくこと。」それは大人目線からだと、危険で危なっかしいことかもしれません。
しかし、子ども目線からみれば、その一つ一つが「学び」なのです。そして、それが自分の中に入っていった時に、自身の「当たり前」になっていくのでしょうね。
そんなふうに、ちょっと子どもを信じて離れてみる。一人でやらせてみる。そんな機会をぜひ増やしてみてください。
それが、子ども自身が「自らの力で生き抜く強さ」を育んでいくきっかけとなっていくはずです。そしてそれは、その子にとっての “一生の財産” にもなっていくことでしょう。そうやって、子どもが育つ環境というものをつくっていってあげましょうね。

子どもにとっての「学び」かぁ。日々の一つ一つを、大切にしていかなきゃね。