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女性(ポイント)

「食」を大切にし始めると、「学校給食の中身」が とても気になってくるのよね。・・そんな中、街をあげて「オーガニック給食」の取り組みをしている今治市の話を聞いたの!

今治市の「オーガニック給食」

「今治タオル」などで有名な愛媛県今治市。じつは、この自治体、「地産地消の学校給食」や「有機農業や食育を柱としたまちづくり」の取り組みを30年近くも続けている全国でも注目度の高い自治体なのです。

では、今治市では、どのようにしてこの取り組みが始まり、どのように継続されているのでしょう? そして、それによって何が変わったのでしょうか?

「オーガニック給食」までの歩み

<「学校給食」の歴史 >



「学校給食」の形は、明治22年頃~始まったと言われています。「家が貧しくてお弁当をもってこられない子どもがたくさんいたため、おにぎりや焼き魚などを提供するようになった。」というのが起源のようです。

その後、「学校給食」は普及していきますが、戦争などもあり、続けられなくなっていったところも多いようです。

そして戦後~ また「学校給食」というものが再開され始めます。行政(文部・厚生・農林三省)からの通達が出ていくなど、「学校給食」はどんどん体系化されていったようですね。

戦後すぐは「食糧難」だったために大変質素だった給食内容・・ それが、アメリカから無償で提供された脱脂粉乳が使われ始めるようになり、またアメリカからの小麦粉も使われるようになり、・・ という歩みを経ていきます。

そして、1954年には「学校給食法」も施行され、「給食の提供」は「教育の一環」とされるようになりました。

男の子(虫眼鏡)

「アメリカからの・・」! 
だから日本の給食には「パン」が多いんだね。

「給食センター方式」から「自校方式」へ

今治市では、1951年から「学校給食」が導入されていったそうです。そして十数年後には、「大型の給食センター」が造られるなどし、「給食の合理化・低コスト化」が進めらるようになっていったと言います。

<「経済化」や「合理化」が重視されるようになった戦後の日本社会 >

今治市の給食に限ったことではなく、戦後の復旧から、私たちの日本社会は、急激に「経済化」や「合理化」の方向に進んでいきましたよね。一方で、そういった社会の在り方による「人体や環境への影響」というのが警告されるようにもなっています。

( ※ 終戦が1945年ですね。)

その後、1962年には『沈黙の春』(・・アメリカの生物学者が化学物質による環境汚染について警告した書籍)が発表され、各地で【 食の安全 】や【 化学物質の危険性 】が考えられるようになりました。

日本でも、1974年の『複合汚染』(・・朝日新聞に連載された 農薬による健康や生活環境への影響を指摘する小説)といったものを契機に、有機農業運動が芽生え始めたと言います。


今治市でも、そんな流れを受けて、飼料の安全性に疑問をもった養鶏農家が中心となった会や有機農業者が中心となった会ができるなど、「食の安全」への意識が高まっていたといいます。

そんな中、「給食センターの老朽化による建て替え案」が出された。そして、反対派と賛成派とが出てくる形となり、最終的にはそこを争点とした市長選となっていったそうです。

結果、「給食をセンター方式から自校方式に変える」とした候補者が当選し、「地元産の農産物を地元の学校で調理していく」という自校方式の給食に変わっていったのだとか。

これが1980年代の話だそうです。

女性(腕組み)

私が生まれたころだわ。

< 転換期 >

このころが転換期なのかもしれませんよね。

→ そのまま時代の流れに乗って「経済化」や「合理化」が進んでいったか?
→ 「ちょっと待って、このままで大丈夫なのかな?」「もっと安全面を考えたほうがいいんじゃないかな?」と、立ち止まり考えることが出来たか?

その違いによって、その後の地域社会の在り方が全く変わっていくのではないでしょうか。


地域産の「有機農産物」を学校給食へ

今治市は、その当時に、きちんと立ち止まり考えることが出来た地域なのでしょうね。ゆえに【 食の重要性 】に対する意識の高さが基盤にあった。

そして、「自分たちの作った安全で美味しい食べ物を、子どもや孫に食べさせたいので、学校給食に導入してほしい。」という有機農家さんの要望が市にあげられ、「自行式給食」を公約に掲げ当選した市長はそれを快諾した。そして「学校給食に地元の有機農家の食材を導入していく」という取り組みが、一部の地域で、試験的に行われていくことになったそうです。

女性(ポイント)

「給食に安全な食材を!」って、個人でどうこうしようと思っても出来ないのよね‥ でも、こうやって地域住民の想いがまとまると、行政を動かすチカラとなっていくのね!

<「安全な食を!」と胸を張って言えない世の中・・>

「現代の食の問題」に気づいた人は、必ずといっていいほどに「子どもの学校給食」を気にかけます。しかし、もともとの社会全体の「食への認識の低さ」などから、そういうことが気になっても、口に出していけなかったり、我慢していくしかなかったり、としてしまうのです。そんな中、みんな葛藤していっています‥

「子どもに、より安全なものを食べていってほしい。」・・ただそれだけの想い。
なのに、それを胸を張って言えない現代社会・・ ちょっと淋しさを覚えますよね・・


しかし、そうそう簡単に物事は進まなかったと言います。それまで給食の食材を一括で購入していた青果事業協同組合からの反対の声。そこをクリアしても、有機農家と学校給食を担当している栄養士との意識の違いから生じるクレームの数々‥

そういう一つ一つに、丁寧に、粘り強く向き合っていって、やっと、お互いが納得し合える部分で、この取り組みを定着させていくことができていったのだそうです。

そして、そうやって「有機食材を学校給食に取り入れていく」という試みが成功したことで、この取り組みは、一部地域から今治市全体へと広がっていったのだとか。

地域力

また、今治市では、「食の安全」を確保するための「都市宣言」も出されていると言います。それだけ、地域住民の基礎がきちんと固まっており、それをバックアップできる行政力というのもあったのでしょうね。

そのため、そういった「想いのある市民活動」が「市政」と重なり合っていくのです。それは、「自分の生活のいま」に「自分の想いが反映された結果」を見ることが出来るということ。

具体的に言うと、「ちょっと大変だけど、より安全な作物を作っていこう。」と有機農業を頑張っているおじいちゃんが、目の前で、子どもや孫が自分の作った安全安心な作物を給食を通して食べている姿を見れるということ、ですね。

こういったことって、当たり前のようで当たり前でなくなっているのが「現代社会」なのです。そんな中、それができている今治市の根底には、転換期だった1980年代に「きちんと立ち止まって考えたこと」が大きく影響しているのではないでしょうか。

それはきっと「いま」も同じです。「いま」もなお、さまざまなことを考え直さなければいけない転換期です。だからこそ、一度立ち止まって考えてみましょうね。

では、そのような経緯で有機食材を給食に取り入れるようになった今治市。その後の変化はめまぐるしかったと言います。なんと、子どもが変わり → 大人が変わり → 地域が変わり → 近隣の地域も変わっていったのだとか。そんな今治市の変化の様子を見ていってみましょう。

「オーガニック給食化」は最強の地域改革!②~「食育」のあるべき姿~